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vol.23『揚州八怪 in大阪市立美術館』

揚州八怪。大阪市立美術館。藤美堂・
2021年8月1日(日曜日)

中国の近現代絵画の礎をつくった男たち。

『揚州八怪 in大阪市立美術館』に行って参りました。

揚州八怪。大阪市立美術館。藤美堂・

 

『揚州八怪(ようしゅうはっかい)』

「なに、妖怪!?」というようなイメージを持たれる方もいらっしゃるかもしれませんが、似ても似つかぬ、素晴らしい偉人たちのことであります。

“揚州”とは中国の江蘇省の都市の名前です。今日は、中国のお話です。

今から250年ほど前の中国・清の時代に活躍した8人の画家がいました。彼らは“八怪”と呼ばれました。中国で“怪”とは“並外れて素晴らしい”という意味なんです。

実際は8人ではなく15人いたというのはご愛嬌ですが、この人たちは間違いなく、中国の近現代絵画への礎を築いた人たちです。

その影響を多分に受けた画家の中には、趙之謙、呉昌石、斉白石、張大千などがいますが、いずれもみな、世界的オークションで高額取引されるような近現代画家の巨匠に成長しています。

“揚州八怪”が登場した後の中国絵画は、画風、画題、技法などの全てにおいて、その可能性が大きく広がりました。そのおかげで、男でも女でも、年寄りも若い人も、子供でも誰もが楽しめるようになったと私は思っています。

※【参考資料】揚州八怪の一人「黄慎」の作品群。左上:「仙子漁者図」(大阪市立美術館蔵)、左下・右上「花鳥草虫図」(上海博物館蔵)、真中「蛟湖読書図」(上海博物館蔵)、右下:「東坡送硯図」(上海博物館蔵)

分かりやすく、親しみやすく、“感性”に響くような絵画。

私は、この画家たちが歴史に登場したのは、“時代の必然”だったと思っているんです。

それはどういうことなのか?を、今日は少しお話させて頂こうと思います。

個性豊かな芸術を生みだせた環境。

まず、“揚州”というのはどういう場所なのかをお話したいと思います。

揚州は歴史が古く、その昔、日本の遣隋使が渡っていた隋の時代からなので、1000年以上も歴史がある場所になります。最大の運河=長江(揚子江)の下流に位置する場所で、もともと商業の盛んな都市です。

八怪が活躍する少し前、今から約300年前の清時代初期の頃には“塩業”で大儲けする商業富豪が増えていました。お金に不自由なくなった富豪たちは文化的教養を身につけるために、絵を買ったり、書物を読んだり、自然を愛でたりなど“文化サロン(パトロンと芸術家が集まる団体みたいなもの)”をつくっていきました。そのパトロンに認められようと、新進気鋭の芸術家たちが揚州に集まったんですね。つまり、揚州は、中国全土から夢見る芸術家が集まる一大都市となっていたわけであります。

八怪たちは、そのたくさんの芸術家の中で頭角を現した人たちなんです。

出身は様々でしたが、みなが、決して恵まれた家庭ではありませんでした。

私は、ここが大きなポイントだと思っています。

出生も、出身も、経験も様々な八怪だからこそ、花、鳥、自然などを、新しい感覚で、民衆目線で描けたんだと思います。パトロンにも、今は商売で成功しているものの、昔は恵まれない育ちの者や苦労した者も多くいましたから、根底の感性も似通ったところがあったと思います。

また、揚州は国際貿易の盛んな場所ですから、目新しいものにはこと欠きませんでした。パトロンたちも新しいものをどんどん求めて、これまでの価値観にないような芸術活動を応援していたはずです。

だからこそ、個性豊かな芸術が生まれたと私は思います。

※【参考資料】左:金農「隷書馬知節詩草跋」(個人蔵)、右上:高鳳翰 「山水花卉図」(大阪市立美術館蔵)、右下:汪子慎「江南疎梅図」(上海博物館蔵)

新たな時代が求めた才能たち。

中国の伝統的・古典的書画(絵画)の歴史は古く、特に明王朝時代(清の前の時代)くらいまでは、画一的な画題(山水など)がほとんどでした。それは王朝文化として継承されたものでもあり、それを描くことが絵画だと思われてきたんです。

※【参考】中国の伝統的な“正統派”と言われた画家たちの作品 左:王時敏『倣王維江山雪霽図』(台北故宮博物院) 右上:惲寿平『牡丹図』(花卉山水合作冊より)1672年(台北故宮博物院) 右下:王翬『渓山紅樹図』(台北故宮博物院) 出典:wikipedia

清の時代も王朝なわけですが、同じ王朝でもその感性は同じではありませんでした。明と清では支配民族が違います。明は漢民族の王朝、清は満州民族の王朝。

ただ、清朝の皇帝たちは中国伝統文化を否定することなく文化統治したので、文化の幅が広がったと考えるのが適切だと思います。

八怪が活躍した頃の清の皇帝は乾隆帝という皇帝だったんですが、芸術をとても奨励した皇帝であり、民間の新しい文化市場も形成され盛り上がりをみせました。

明から清への時代過程で、中国の芸術の幅がとても広がっている理由の一つとしては、“奨励している権力者の影響”もあると私は思っています。

例えば、日本の江戸時代でも将軍が変わる度に、政治だけでなく、色々な芸術が禁止されたり、逆に奨励されたりしました。明治時代になると芸術的価値観も180度変わり、今まで良しとしてきた古き良き芸術、仏教にいたるまで、廃止運動がおこりました。そして、戦後は、表現の自由の時代となり、日本美術・芸術の幅は一気に広がったわけです。色々な意見があるかとは思いますが、政治と文化は非常に相関していると私は思います。

このようなことから、揚州の八怪たちが陽の目を浴び、そして後世に残る大活躍ができたのは“時代”という理由も大きかったのではないかと私は思います。

西洋絵画の印象派にもいえることですが、“時代が彼らの才能を求めていた”という言葉が、私は一番しっくりきます。

揚州の八怪たちは、新たな時代が求めた才能であった。そして、その才能を思う存分開花させることができた。その影響を多分に受けた画家たちが中国の近現代絵画をつくりあげたと考えれば、その功績は本当に偉大なものだと思います。

今回も貴重な展覧会をありがとうございました。

大阪市立美術館さまには、本当に感謝感謝です!

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